2/27/2011

書作品の制作態度

個展で色々な人と話をし、ノートにまとめて整理をしています。


最近の自分の作品制作では、基本平面的作品(文字を使う事が多い)と映像作品(まだ文字はあまり使っていない)を並行して行っています。
なぜ、まったく関わりのないようなこの二つを並行させて制作をしているのかと考え、根本的な目的到達地点の違いがあるということに気づいたのです。


平面作品では、(コンセプト的には書と絵画のニュートラルな地点だけれども)視覚的にはやはり「書」に限りなく近く、一般の人(大衆ではなく、美術関係者とかのこと)からしたらやはりその違いは分かりにくい。くらい「書」に近いものです。
そのモチベーションというのは、やはり書から発しているものです。
そして、その到達地点というのは、現代の「書」の姿の極論であって、それは現代の「書」の姿が書の歴史から見て、進化であると仮定した上での制作態度ということです。
「書」が言葉と共に生まれ、言葉と共に成長し、やがて言葉とは袂を分つ、それが「書」にとっては進化であって、書の歴史の肯定をしている態度です。


ところが、映像作品というのは、まったく違うところから湧いていて、3年程前に知り合った、とある高名な建築の方(兄弟)のアドヴァイスから、映画を見始めたことに関係しています。もともと映画といったら、本当に娯楽の一つでアクション系か地球滅亡系くらいしかたまに見ていなかった自分ですが、やはり指摘を受けたら否定するのではなくて、まず行動しようがモットーですから、古典的な映画を映像の一種として見始めました。
そうすることで、映像のおもしろさに気づき、映像で表現できる幅の広さに魅力を凄く感じて来たのです。
ちなみに洋画よりも邦画派で新藤兼人監督が一番好きです。
そうこうするうちに、色々と映像制作する機会が出て来まして、自分の中でも「書」を根底に何か作れないかと考えるようになったのです。
平面作品の制作態度が書の歴史の肯定であるのに対し、映像作品の制作態度は書の歴史の否定であって、書の歴史を過去まで戻すことに主眼を置きつつあります。
それは境界線の曖昧な状態であって、書の様々な要素が宙に浮いていて、ただ物体存在としてあるような。ここはまだ、自分でも完全に分からず抽象的な書き方ですいません。




そのような根本の違いに気づき、さてこれを両極端の方向にばらばらに進めて行くのか、もっと中間も狙うのか、考えていかなければなりません。






はー、twitter慣れしてしまって、長い文章が大変大変......


続く

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